金村 修 寄稿
記録は記憶と敵対する。
記録は記憶のための沃野のではなく、記憶の荒野であり、記憶の廃墟としての記録は、忘却のための記録、記憶の殺戮場としての記録として人間の記憶と敵対する。
記録は記録された対象に、名前の放棄を要求する。名前は対象の特権と一元化であり、記録は名指されたものの、名前とものの関係を分離する。ものから分離された名前は、あらゆる対象に照応しようとするだろう。
私が命名した名前が、そのものの名前になるのだ。撮る価値があるから撮るのではなく、撮ることによって価値を奪い新たに価値を与える。
菊池咲恵は、対象を記憶したいから撮るのではなく、対象をこの世界から消滅させるために撮る。撮影者と被写体が消え、記録という行為だけが浮かび上がる。あらゆるものに対して記録が先行する。世界はすでに書かれて記録された書物であり、菊池咲恵の写真行為は世界から記録という身振りだけを抽出させる。
中園貴宏の写真の画面の手前に写るデジタルカメラのファインダーにモーターショウのコンパニオンの姿が浮かび上がる。それは実在のコンパニオンが写っているのではなく、実在のコンパニオンとの関係が断ち切られた残骸としてのコンパニオンであり、誰にも似ていない固有名を放棄したコンパニオンの幽霊なのだ。
廣瀬久哉の写真は記憶の秩序に従わない、選択の根拠を遺棄した、無差別に抽出され散乱する写真を提出する。廣瀬久哉の写真はロペスピエールの革命裁判所のように、対象を無差別に捕縛し、無根拠に写真の判決を与える。
記録は記憶の沃野に火を持ち込む。収蔵された記憶の倉庫に火を放つ。写真は火のようであり、燃え上がる不確定な火の姿が写真なのだ。火を写すことが写真なのではなく、火が写真なのだ。火とは媒介であり、二つ以上の事物を接近させ、その境界を溶解させる。思い出と忘却の領域を同時に溶解するものが写真なのだ。
金村 修