作家コメント
あと1つでターミナルの大きな駅というところで乗り換えて車掌がいない2両編成の支線に乗り換える。1時間に数本しか走っていないのに客の姿はまばらだ。線路のつなぎ目が多くてポイントもたくさん通過するようでガタガタとよく揺れる。車内放送は少し人工的な、女の声で録音されたテープだ。2駅ほどで終点につく。改札に向かう途中で運転士が反対に歩いて行くのとすれ違う。駅の廻りにスクラップを仕分けする作業場があるからクレーンが廃材を持ち上げては積み下ろす音が絶え間なくしている。
さて、右へ行くのかそれとも左に行くか。もう半年くらいこの場所に通っているから、大まかな土地勘はできた。けれども最終目的地がないからでたらめに歩き始める。行き当たりばったり、ネガティブな意味ではなく。天気が悪ければ産業道路より南の、運河に囲まれた工業地帯を徘徊して写真を撮る。決めたことはそれだけだ。
カメラを構えてファインダーを覗いていると、一部分が抜き出されたように見えるから、自分がよく知っていると思っていた場所の記憶を反故にされる。そして、その場所に当然含まれているはずの時間的地理的な諸関係さえ思い出すことができなくなる。全体から切り離された仮想的な風景の、時間の断片にしか過ぎないこれらの写真にはそこに写された「場」や「もの」が確かに存在していたということ以外にはなにも含まれていないかもしれない。それでも写真をみる人が撮影者の有り様も含めてその周辺に、勝手に思いを巡らせることはできる。そこが奇妙なところで、案外それが写真のリアリティーなのかもしれないと思っている。