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2014年2月3日(月)−2月8日(土)

東京綜合写真専門学校 金村 修クラス写真展『ピクニック』

寄稿

宮澤響
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石田惇
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比舎麿
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寄稿

ピクニック気分で来るな、ピクニック気分だから遭難した、ピクニックはいつも非難の対象にされる。ピクニックという浮かれた気分、ただ楽しいだけで中身がないというような批判。連合赤軍の遠山美枝子は、山のアジトでそのピクニックが総括の対象になったりするけれど、ピクニック気分で浮かれたまま銃撃戦を目的とした武装闘争に参加することのなにが悪いのだろう。先のことも考えずに浮かれた気分のまま、場当たり的に今現在を過ごすことは、未来の建設を考える革命党派にとって、それは犯罪的なことなのだろうか。

ピクニックはつねに自殺と罪の性格をおびる。ピクニックには目的がないから、利害や有用性という観点から見れば、ピクニックは有罪であり、無益で無動機の移動祝祭としてのピクニックは、『嵐が丘』のヒースクリフがキャサリンとの野性的な子供時代にとどまりつづけようとしたように未来を拒絶する。ピクニックに未来はない。ピクニックには現在とその瞬間しかない。『嵐が丘』のヒースクリフのように現在を横溢、燃焼することしか考えないから、富豪の紳士リントンに惹かれ結婚したキャサリンに自死を強要するのは、ピクニックの倫理からいえば当たり前のことなのだ。ピクニックに有償性はない。ピクニックは無償としての自殺を選択する。自殺に目的はない。プロレタリア独裁の最高形態は自殺であると言った平岡正明の、プロレタリアの独裁が国家の死滅を目指すために自殺を選ぶなら、ピクニックは無償で無垢の自殺を選択するだろう。

消えていくものが無垢であるなら、その無垢を支えるものは暴力と死以外になにもない。ヒースクリフの無垢を支えつづけるものは、この未来がある社会のなかの、どこにあるだろうか。無垢は無垢以外のなにものも求めない。マルキ・ド・サドが「したがって犯罪とは、それ自体においてすでに非情な魅力をもっているものなので、逸楽というものからいっさい切り離されていても、ただそれだけで、ありとあらゆる情念をもえ上がらせるのに充分なのだ」と言ったように、無垢とはただそれだけのものであって、無垢を未来にまで横溢させようとするなら無垢は最悪な罪と共犯関係を結ぶだろう。ピクニックはつねに最悪な結果を選択するだろうし、その最悪な結果に服することをピクニックは要求する。エミリ・ブロンテが生まれてそこから一歩も出ずに死んでいったヨークシャーの片田舎の荒野にとりかこまれた牧師館でのピクニック。それはいつもなにかを見失う。なにもない場所で自分を見失うこと。未来のない場所で自分を見失い恍惚とすること。無辺際な荒野にすべてを賭けること。写真が瞬間を写すメディアなら、写真はヒースクリッフ的な瞬間の無償の燃焼を肯定するだろう。写真は未来を拒絶し、タイムマシンのように過去も肯定しない。撮りつづけられたものはなにかの蓄積ではなく、砂漠と荒野の蓄積であり、写真は瞬間という小さい死を現実の世界に導入する。ピクニックが虚無に向かって歩きつづけるように、写真はなにも写さない。楽しくもなければ、つまらなくもないピクニックが、なにもない砂漠のような荒野を写しつづける。

金村 修