展示作品: ゼラチンシルバープリント 額装大全サイズ 約30枚
作家コメント:
街で生活するものが堤防を越え、河原に出たときに開放感の様なものを抱く理由の第一は、視界が開けている事であろう。建物はほとんどなく、草木も低い。いつも建物に囲まれて、先も見えない様な雑然とした風景の中で生活していれば当たり前である。また別の理由として、堤防が守っているのは堤内の人命、財産であることを考えると、堤外は管理外であり、自然をコントロールすることを放棄された場所でもある。それは逆説的には自由区とも言える非日常的な空間のように感ずるからではないだろうか。
街で生活することは、全てにおいても何ものかに管理されることである。一方、河原を利用している人は、街ではそう簡単にはできない様なことを楽しんでいるように見える。ジョギング、ゴルフ、野球などのスポーツ、釣りや、ラジコンなども普段、街中でできるものではない。夏ともなれば半裸で日光浴をする人もいるし、バーベキューや花火もできる。犬だってリードを外してもらえたりするのだ。厳密には禁止事項も含まれているが、粗大ゴミを捨てても、勝手に家を建てたって、概ね寛容である。
主導権は常に河原側にあるので、ここで、街と同じ振る舞いをしようとすると違和感が生じる。例えば、普段、街の写真を撮っている写真家など河原に置かれたら迷子も同然だ。とりあえず河口から上流に向かって歩いてはみるが、200mごとにシャッターを切るみたいなことしかできない。遠くに人工物が見えただけで懐かしくなる。橋や水門にたどり着いたら大騒ぎだ。
自由区と思われた空間でのこの不自由さは、管理された街の中を、カメラを持って歩きまわり、他人の家を撮ることが写真家にとって日常的な行為であることを確認する。主導権は街にあり、写真家は街によって開放され、街に管理されることを好むのだ。
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作家略歴 |
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1960年 |
神奈川県出身 |
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2011年 |
個展「約束の地」 KAWASAKI DEEP SOUTH 2010-2011 新宿ニコンサロン |
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2012年 |
個展「川崎ハード」 GALLERYmestalla |