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まとまった休日が取れると車にカメラを積み込み遠方までよく旅をした。
20年以上前の話であるが、旅先で目に留まったものを存在感そのままに写真に留めてみようと思った。海岸で貝殻を拾い集めるように取集し、プリントしてそれらが何なのか、今一度確認してみたいと思った。可能な限り客観的で忠実に、あえて素朴な態度で被写体に向き合い撮り集めたのである。
日常を離れて自由に移動していると、普段見えないものが見えてくる。旅とはそういうものだ。普段は視覚に引っ掛からない物の存在が、不思議と目に飛び込んでくる。そういうものを撮り集めれば社会の深層心理とか還流のようなものが見えて来るのではないかと、なんとなくそう思っていた。
そうやって撮りためた写真はもうかなり前のものになってしまったが、ここにきて機会があり印画紙にプリントすることが出来た。はたして、それらの写真は当初の思惑通りの何かが写っているのだろうか。
プリントした写真を一つ一つ並べてみると、確かにそれらは現実に存在したものを注意深く写したものだ。それらはリアリテイとは少々異なるものを感じさせるが、それは当初の思惑の、社会の何かを定着した物とも異なって見える。無心に、恣意的な感情を抜きにして撮影していたにもかかわらず、それらは客観より非現実の風景に見えてくる。何故だろうか。
最初の設定、すなわち標本の選び方が自己の深層心理の探求そのものだから、と言われればそれまでだ。もともと誰かに何かを伝えるために写真を撮ったのではない。だから自己中心的な妄想写真だということだ。一方で、写真は現実を写し取るのではなく、現実の表層の二次元の投影で、現実を指し示す記号のようなものにすぎない。写真には虚構の世界が現出するのだと。確かにそのような違和感はどんな写真にも存在する。
人がモノを「見る」とき、脳で取捨選択された自分に都合の良い視覚情報を見ているそうだ。カメラは眼前に存在するものを分け隔てなく均一に記憶する装置だ。表現しない写真には必然的に、現実だと思い込んでいたことが単なる幻想にすぎない、という一点が記録されるのかもしれない。さて、たまたま標本箱を覗き込んだあなたには、これはどのように見えるであろうか。
*タグとは標本採集の仕訳票の意