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2017年2月27日(月)-3月4日(土)

東京綜合写真専門学校 金村 修クラス展「Take Five」

13:00-19:00 土曜日-17:00日曜休廊

金村 修 寄稿

井上 雄輔  「影を探して空を求める」
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深川 伶華  「Cat Walks」
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松井 拓也  「色のついた箱」
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松田 祥磨  「nest」
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山中 裕樹  「honey bitter honey」
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金村 修 寄稿

よく言われていることですが、バブル以降の世代は世の中に何もいいことがないのが当たり前だと思っている。未来に対する希望もなければ、だからといって絶望しているわけでもない。淡々としたその姿勢はそんなに悪いものだとは思いません。世の中がこれ以上進歩するなんていう幻想を持つよりはよっぽどマシではないでしょうか。

けれどさらなる進歩がまだ信じられている世の中では、写真もより高度な進歩を求められています。前の世代の芸術を越えろとか、それはすでに昔やられているからもっと新しいものを考えろとか、芸術はつねに進歩しなければいけないという強迫観念がまだ時代の中心を占めています。

そのような進歩史観や、すべてのものは昔にやられているというイデオロギーほど、タチの悪いものはない。“〜はすでに終わった”という言い方は、要するにモダニズムの原理です。未だにモダニズムの原理を振り回していても現実は前に進みません。芸術は進歩もしませんが、けれど昔と同じままの姿を維持しているわけでもない。何かが変わりつつありますが、その変化は微細です。ほとんど何も起こらないように見える。かつてあったものの反復に見えながらそれは、螺旋状のようにゆっくり変化しているように感じます。

反復されることで過去が明らかになる。反復されたことで過去が現れるのです。反復されなければ、それは一度だけの出来事として忘れ去られていきますが、反復されることで過去に何か出来事があったことを明らかにする。出来事はだから二度目として現れるのです。出来事は最初に現れるのではない。出来事は反復されることで、初めてそれが出来事として認知される。

写真は被写体を再現するメディアなのでしょうか。写真は被写体を完璧に再現するのではなく、被写体をフィルムや印画紙の中でもう一度反復するということなのではないでしょうか。カメラで切り取った現実を再度印画紙の上で反復する。反復することで、その被写体が意味を帯びる。赤瀬川原平達のドロッピング・イヴェントは写真に撮られたから、それが意味のあるものとして認知されたわけで、写真に記録されてなければ、それは単なる過去として忘れられていたでしょう。記録に値するからそれは記録されたのではなく、撮られたことでそれが記録に値すものとして認知される。写真に撮られたことで、彼らのパフォーマンスは美術史に残す意義があるという価値が付与されたのではないでしょうか。撮られるという写真の反復を通り抜けたことによって、それが価値として意味を持つ。先天的にそれに価値があったのではなく、価値は撮影という反復を通じることで生み出されるのです。

写真とはだから反復であり、反復するからこそ出来事に価値を与えることができるように、過去の写真の方法を反復することは、過去に新しい意味を与えることです。反復される度に新しい意味が付与される。ジャズがブルースを反復することで、つねにそこに立ち戻るべき場所としての黒人音楽の原点という場所を構築しました。アフリカ・バンバータがクラフトワークを『プラネット・ロック』で反復することで、狭義のドイツ・プログレという枠から彼らをダンス・ミュージックとしてフロアに解放しました。新しい意味を付与する反復とは単なる繰り返しではなく、誤解とズレを含んだ繰り返しなのではないでしょうか。モータウン・サウンドやブリル・ビルディング・サウンドのガールズ・グループをビートルズのカヴァーを通してもう一度聴くと、それはかなり発狂度の高い音楽に聴こえます。ビートルズがモータウン・サウンドやブリル・ビルディング・サウンドを反復したことで、それはヒットポップスを何か得体の知れない音楽に変質させたのです。反復とはだから誤解とズレを繰り返すことです。一見昔の衣装を着ているけれど、そこには微細な誤解とズレが見えてくる。新しいものというのは、過去を反復することで見えてくる誤解とズレなのではないでしょうか。

過去の写真の方法論を反復することで、かつての写真を忠実に再現したいわけではない。ゼミの学生の写真を見ていると、反復することで過去の歴史化された写真の系統に属することを目的とするのではなく、そこから逸脱していこうという過剰性を感じます。彼らの写真は、写真を目的としているのではなく、もっと違う欲望を表現していこうという風に感じます。彼らは写真に対してフェテッシュな欲望を抱いていない。写真を目的ではなく手段のように扱っている。写真そのものを目的とするのではなく、写真を使って何か違うものを提示する。過去の方法論を反復することは、かつての写真に戻るための反復ではなく、反復することのずれと誤解を拡大することで、写真から逸脱していこうという過剰さを感じます。

高速道路の空間を分割する井上雄輔の写真は、決して目新しい方法ではありません。断片の風景をつなぎ合わせることで一枚の写真を成立させる。そんな70年代的な分割写真のコンセプトで高速道路の風景を撮る彼の写真は、写真による空間の再構成、三次元のものを二次元に置き換えたときのずれという問題を共有しながらも、そのずれを分割写真として展開するのではなく、視線の快楽として展開しています。写真によって生じた空間のずれを読む分割写真の知性の訴えに対して、肉眼の快楽に重点を置いた彼の写真は、もっと身体の快楽に近いものなのではないでしょうか。

川崎の産業道路で無数のトラックを撮り続け、それをベッヒャーのタイポロジーのように展示する彼の他のシリーズにも感じることなのですが、それはタイポロジーという方法論で近代社会を支える下部構造を剥き出しにするというベッヒャーの政治的方法とは違い、極めて個人的な欲望に根ざしている。彼の写真は70年代コンセプト写真やタイポロジー写真の方法論を反復しながら、そこにそれらの写真が持っていた政治性に寄るのではなく、身体の快楽に回帰させようという欲望を感じさせます。高速道路の風景を微妙に分割してずらすという知的な操作の背後には、アウトサイダーといえるような非合理的な欲望がそこに存在しているのではないでしょうか。

深川伶華のコピー用紙とトレーシングペーパーを多用するインスタレーションは、アナログ写真が持っていたアウラを放棄させるための方法のように思えます。彼女の写真には、いわゆる写真らしさが希薄です。コピー用紙やトレーシングペーパーを使用しているからなのでしょうが、フィルム用印画紙が持っている独特の重さが消え、無重力の空間が現れてくるようです。写真はコピー機を通され、展示でさらにトレーシングペーパーを被せられることで、被写体の意味が希薄になっていく。被写体の存在感が希薄にされ、蒸発しそうに見える。ぺらぺらの薄い紙一枚でなんとかこの世の中に存在しているという感じがします。イメージやそれを支える支持体を希薄にすることで現れるこの感覚は、すべてのものをこの世界から蒸発させたいという欲望を感じさせます。

世界から被写体の重さが蒸発していくことで、コピー紙やトレーシングペーパーの存在感が増していく。現実の希薄さと紙の物質感が不釣り合いな形で共存するのです。希薄になるのはイメージだけではなく、写真のアウラも希薄になる。写真はかつて芸術からアウラを放棄させた非アウラ的なメディアでした。それが今では奇妙なぐらいにアウラを身にまとっている。非アウラを徹底させるデジタル写真もまた、そのような写真的なアウラを身にまとおうとしています。彼女の写真は一切のアウラを消滅させようというデジタル写真の原理に忠実になろうとしているのではないでしょうか。

どこといって特徴のないどこにでもあるような公園やそのモニュメントを撮る松井拓也の写真は、フリードランダーのモニュメント・シリーズを反復しながらも、そのモニュメントが一体何のモニュメントなのか分からない撮り方をしています。何の記念なのか分からないモニュメント。モニュメントから記念という意味を抹消することで、モニュメントは単なる石にしか見えなくなる。意味を消失した石が公園のあちこちに点在する。

公園という人口的な遊戯空間は、遊戯しろという行政からの命令で満ちている空間です。滑り台やブランコという遊戯道具は、一方的に遊戯を求める命令の象徴ではないでしょうか。松井の撮る公園には、そのような命令が慎重に削除されている。彼の撮る公園は遊戯を一方的に求める空間ではなく、失業者が昼間からあてもなく座り続けている、行き場のない人間の最後の行き場という感じがします。公園=子供の遊び場という遊戯の意味から解放された松井の公園は、空っぽで何もない。そこには生き生きとした子供よりも失業者やホームレスの溜まり場にこそふさわしいのではないでしょうか。

同棲する彼女との日常写真を撮る松田祥磨の写真には窓が写っていません。そのことが閉塞感を感じさせ、ワンルーム風の部屋が、刑務所の自殺防止房を想像させます。彼の撮る日常は、かつての日常写真のような生活感がまるでありません。食べるものは工業製品ばかりで、プラスチックのトレイや漫画が散らばり、ほぼ裸で暮らしているような彼らの生活は、日常というものが消滅してしまったかのような感じを受けます。妙に白い部屋の壁が、さらに生活感の消滅を促進させていく。プラスチックのような部屋の細部は、ただゴミが散乱しているだけで、そこに人間の痕跡を感じさせません。白い空間に工業製品と裸の人間が点在しているだけの部屋で、いくら裸を写してもそこに今までのようなエロスは存在しない。むしろこの写真には、エロスや生活の廃墟しか見えません。

山中裕樹の写真も旅や祭りや日常を撮っている写真ですが、その視線は日常をアクティブに撮るのではなく、傍観者のように佇んで撮るような感じです。Web上のインスタグラムの日常写真とは真逆の盛り上がりのなさです。カメラの構造は、写真家を傍観者の立場であることを強要します。カメラを構えるということは、その状況から一歩身を引くことですから、写真を撮るというのは、その場所から疎外されるということです。それはどうしても傍観者的な態度になるしかない。被写体が自分にとってどんなに切実なものであっても、カメラは撮影者を傍観者の立場に追い込むのです。彼の写真はだから見た目ほど楽しそうでもない。むしろ楽しそうな状況を眺めていることしかできない傍観者の諦念を感じさせます。

繰り返される日常というのは多分に退屈なものです。退屈な日常をまるでスペクタクルのように写すインスタグラムの写真とは違い、もはや日常写真には退屈しか存在しない。そんな彼の写真は退屈の肯定であり、同じものがただ続くという現実を快楽に転化させています。同じような日常を飽きもせずに写し続けることこそ、桑原甲子雄の『東京長日』を筆頭にした日常写真の面白さなのではないでしょうか。

彼の動画の面白さもそこにあると思います。車のライトがゆっくりと交差するガソリンスタンドのショットや、徐々に霧が明けていくと向こう側に道路が現れるショット。奇妙な踊りを続けるどこかの盆踊りのショットは、動画の本質はフレームの中でものが動くことであり、撮影はそんな運動の観察です。“退屈の監視人”(佐々木敦)ともいえる彼の動画は、ただ動いている日常を正面から撮り続けるのです。

金村 修