鵜養 透Toru UKAI© Toru UKAI Invisible Machinery私が最も関心を寄せるもの。それはこの社会に密かに息づく、見えない構造です。私たちが存在する限り、その構造もまた働き続けます。それはしばしば私たちを抑圧しますが、元来私たちの欲望の総体から生まれたものに他なりません。私はその構造を「Invisible Machinery(不可視の機械)」と名付けました。それはこの社会の慣習、法、システム、あるいは建築のうちにさえ見出せますし、私たち自身の振る舞いや仕草、姿体そのものとして現れることもあります。「不可視の機械」は私たちの外部に存在するだけでなく、私たち一人一人の内部でも作動しているのです。それは文字通り目に見えませんが、徴(しるし)は至るところに見出せます。そして、その不可視の構造を最もよく捉え得る手立てが写真であると、私は考えます。 写真は私たちの純粋な視覚とはおよそ異なる何かです。私たちの視覚は動的で、流れ続ける時間、つまり私たちの「生」そのものに依拠しています。一方、写真は静的で、時間=生を目の前の現実から除去します。その意味で、写真は「死」の技法であり、撮ることは「止まること」「止めること」に他なりません。そして、だからこそ、とめどなく流れ過ぎる私たちの生の内に隠され、看過される何物かを、一枚の写真は決定的に知覚することができるのです。写真とは可視と不可視の間を往還する秘術です。 これら一連のイメージは複数のプロジェクトのために撮られました。「Invisible Machinery」「Prewar Days(戦前)」「Theater Degree Zero(零度の劇場)」「Baroque for Life(生のためのバロック)」等々。しかし、私が何をどう撮るにせよ、すべてのイメージは避けようもなく「不可視の機械」というコンセプトに収斂します。それが私の目の宿命であり、私はそこから逃れることができません。
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