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2024年10月17日(木)-11月9日(土)

小山貢弘 写真展『種子は流れ着く』

Mitsuhiro Koyama photo exhibition

Open:木曜日、金曜日 14:00-19:00、土曜日 13:00-19:00
Closed:日曜日、月曜日、火曜日、水曜日

開催のご挨拶   ステイトメント   作家略歴    中間地点にとどまる

© Mitsuhiro Koyama

開催のご挨拶

ギャラリーメスタージャは、2024年10月17日(木)から11月9日(土)まで、小山貢弘写真展『種子は流れ着く』を開催いたします。

小山は大学卒業後写真学校に学び、その後約20年に及び多摩川の河川敷を中心とした作品を制作し続けてきました。当ギャラリーでは2009年の初個展から2014年、2018年に続く4回目の個展となります。是非ご高覧ください。


ステイトメント

梅雨前に撮影した横たわる巨大な木の根は冬に再訪した時には何もなかった。いや、木の根だけでなくその辺り一帯が以前とは様変わりしていた。ここは元からこの状態ですと言わんばかりの景色である。

撮影をはじめた当初は、土手の上から俯瞰した景色を中心に撮っていた。
鬱蒼とした草木の中に立ち入ったらどのようにみえるのだろうという好奇心から視点は俯瞰から河川敷内部に移っていった。

撮影は青梅から川崎あたり、多摩川の中流域から下流域まで広く網羅している。
中流域の河川敷は土手を降りると一面が草木で覆われている場所が多く、下流域に行くほど河川敷は整備され、グラウンドやゴルフ練習場になっている。
しかし、整備された河川敷にも人の手が入っていない緩衝地帯のような場所があり、都市から取り残されたような自然が広がっている。住宅街のすぐ側にありながら人の立ち入りを拒むかのようなその場所は都市の裏側のようだった。

多摩川流域の撮影をはじめてから20年近く経った。同じ場所を継続して撮影していくとフレームを通して見続けてきた景色に加えて、フレームの外にある景色にも視点が向かうことに気付く。作品の要素として重要視してこなかったものが一つの軸として成立し、同じ風景に対して理解を深めることで機微を見出すことに繋がる。

しばらく向かわなかった場所がどうなっているのかと思い足が向かうことがある。
着いてみて愕然とする。大規模な工事があり更地になっていた。
また別の場所では何年か前から同じボートが木に張りついている、流されてきたのか投棄されたのか、落書きされたアルミの造形物はそのままだ。
カメラを担ぎながら背丈ほど伸びた草の中を進む。道なのかもわからない。至近距離で虫の羽音が響く。嗅いだことのない匂いの先に何があるのか、やわらかい地面を踏み抜かないように慎重に歩く。草木に覆われ昼間でも薄暗いこの場所は夕方になると光が届かなくなった。残光の中で捉えた景色はまた新たな一面をみせた。

小山貢弘



 
作家略歴       1980年 東京生まれ
  2005年 日本大学文理学部ドイツ文学科卒業    
  2009年 東京綜合写真学校研究科卒業

       
個 展 2021年   「芽吹きの方法」(Alt_Medium・東京)
  2018年   「Winter Gardens」(gallery mestalla・東京)
  2014年   「Botanical Gardens」(gallery mestalla・東京)
  2009年   「plant」(gallery mestalla・東京)
グループ展  2023年   笠間悠貴企画展「風景の再来 vol.2」
(photographers’ gallery・東京)
  2022年   「trail」写真家池田葉子氏との」オンライン展覧会
(川崎市市民ミュージアム・神奈川)
  2014年   「after 427 yeas」(AKITEN・東京)
  2013年   「plant」(AKITEN・東京)
  2008年   「鼓動する景色」(バンクアート横浜・神奈川)


中間地点にとどまる

   小山は、4×5インチフィルムの大判カメラを使用し、2009年の当ギャラリーにおける初個展『plant』から今日に至るまで、一貫して多摩川の河川敷に広がる植生をネガカラーで撮影しています。大判カメラによる緻密な再現、またネガカラーによるプリントの柔らかな色や諧調は、小山の作品の大きな特徴と言えるでしょう。

   しかし同じ方法で、同じ被写体を撮影し続けることは、作家として多少なりともリスクが伴います。時に堂々巡りを繰り返し、やがて隘路に嵌り込む可能性があるからです。

   ところが、小山の作品はそのようには見えません。無秩序に枝を張り、絡み合った蔦を背負い、曲がりくねって、あるいは無残に折れて打ち捨てられた木々。見る者が思わず写真に顔を近づけ、もしくは後ずさりをしながら、紙面に再現されたその植生の細部に目を凝らさずにはいられないように、小山は被写体の生命力、いわばその野蛮で強靭な力を借りながら目の前にある事態を淡々と写し取っています。

   初期には、どちらかといえば全体の統一感へ配慮した作品の選択がなされていましたが、時間が経つにつれ、風、雪、夕刻の光という以前には写り込んでいなかったものが徐々に選択され、ある時はレンズが水平にではなく斜め上に向けられており、今回はむしろ様々なベクトルを内包した作品が大きな柱に据えられています。またそれが安易に人の情緒を揺さぶるものとしてではなく、精緻な記録として4×5の枠の中に収められています。

   しかし、いくら管理された河川敷であろうと、人の手が及ばない植生を写真という近代の理性が生み出した装置に嵌め込もうとすれば、実際にそれが纏っているしたたかな生成力というべきものはともすると紙面から零れ落ちていきます。そして作家自身がそれをよく了解しているからこそ、繰り返し、泥が堆積して無数の昆虫が飛び交い蠢く河川敷に足を踏み入れていくのであり、その反復行為こそが、小山の作品自体の生成力の源になっているのではないでしょうか。

   写真は、レンズを向けて僅かに指を動かせばあっけなく撮れてしまいますが、水は流れ、泥は抉られまた積み重なり、流された種子はあちこちに漂着し、時間をかけて芽吹きを繰り返し、瞬時に世界を把握しようという合理的で機械的な動きとは相反する様相を見せます。そのはざまに立ち入り、足を囚われながらも中間地点にとどまり、過剰な細部と零れ落ちていくものを繰り返し提示して想像力を喚起させること、それが小山の選択した仕事であるように思えてなりません。

ギャラリーメスタージャ 外久保恵子