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2010年3月29日(月)〜4月10日(土)

吉田  徹  写真展「手垢の向こう」

13:00-19:00  日曜休廊  最終日17:00まで

略歴 コメント

吉田徹 写真「手垢の向こう」
吉田徹 写真「手垢の向こう」
吉田徹 写真「手垢の向こう」
吉田徹 写真「手垢の向こう」
(c) TORU YOSHIDA

展示内容:16×20インチ 白黒写真 約30点



作家略歴  

吉田 徹

1977年 大阪生まれ
2004年 東京綜合写真専門学校 卒業
2006年 個展「靴音」ギャラリー山口 
2008年 個展「ほはば」ギャラリーメスタージャ 
2007年 グループ展「アート・ジャム ギフト展」ギャラリー山口


作者コメント

風邪をひいてしまい食べ物の味覚を失ってしまうとき、身体がその食べ物そのものだけを認識し、吸収している状態が心地よく感じる。



画面は曖昧に留まる。強調がないということは視線を捕らえる対象がここには写っていないということだ。つまり、これらは我々がいつも目にしている何もない光景であり、にも関わらず作品として選ばれ、発表されているということだ

あるがままの対象というものは、本来つまらないものである。それが有意義なものになるのは、見る人間である我々が多くのことを知ってしまっていることに原因がある。

目を引くものがないとしても、我々の目は見えてしまうのだから、少なくとも何か一箇所くらいは目を見張るものがあるはずなのだ。こう思うとき、我々は自らの目に優位を認めている。我々は常に既知のイメージを画面の何処かに当て嵌めて納得しようとする。

中心となるものがあるとき、実は感謝しなければならない。それは刺激に慣れてしまった我々に対する優しい心遣いなのだ。

だが、そのせいで我々の目が大切なものを見逃している可能性は大いにある。優しさを押し付けて、得意になっている人もいる。我々の無知につけ込み、優しいフリをする人もいる。疑えばキリがない。我々は反省を強いられる。

そして誤解が生じる。「本当は何なのか」ということがわからなくなる。優しさに甘えることも、物解りよく反省することもなく「本当は何なのか」を探し続けることは迂闊には手を出せない、難しい課題なのだ。

これは、過剰なイメージの力さえなければ我々の視覚は自然化されるだろう、という素朴な理念を正当化するための課題でもある。

(文:久宗 祐司)