ギャラリーメスタージャ企画展 八田 淳 展作者コメント あくびの仕方
丑年の春開催の、私の個展にふさわしく、大きなあくびのそのあとの、 私が常々敬愛して止まない平岡正明氏の数々の文章の断片と、1973年、田村画廊でのたった三日間だけの私の個展の案内状(ワラ判紙にガリ版刷りの)に記されたマイケル・ローズ氏の一文を紹介して、今回のコメントとする。 ひばりと百恵-----二人の女の民主主義 美空ひばりと山口百恵の距離は十九キロだ。ひばりの生れ育った横浜の滝頭(たきがしら)と百恵が育った横須賀不入斗(いりやまず)の距離だが海岸沿いの国道16号線でそんなものだ。その十九キロの間に戦後歌謡曲史を二分する二人の天才少女があらわれたのは不思議な気がする。 (略) ひばりのレコードデビューは昭和二十四年、十二歳時「河童ブギ」百恵は昭和四十八年、十四歳時「としごろ」で、その間二十四年。この時間は遠い。 (略) 東京湾のほんの一角、隣町への移動にすぎないのに、美空ひばりは横須賀を一曲も歌わず、山口百恵は横浜を一曲も歌わなかった。その点で遠いのである。 (略) 芸術は多数決ではない、実力社会だ。ひばりはその実力によって芸能界に君臨し独裁しもした。その代償でもあるかのように、死ぬまで歌いつづけその実力と権威を自分一代限りのものとして家元にもならず、相伝もしなかった。不幸と醜聞を芸の糧ともした。 百恵は歌の純度をひたすらに追った。その純度で周囲を洗い浄めた。妻になり母になる市民的なふつうさを獲得するために全盛時のただなかで引退した。一人の女として貞淑の美徳にしたがった。そんな十九キロだ。 平民芸術 三一書房 1993年 第一版第一刷 発行 ④ 江戸深川の新内、ラプラタ川河口のタンゴ、ニューオルリンズのジャズ海抜ゼロメートル地帯の粋は、水もしたたるほどだ。 (略) クリオール的頽廃感とはなにか。アホいということだ。フランスのデカダンスにアホさはない。 白人ジャズにもアホさはない。地理上の発見以来四百年、地上を支配してきた白人たちは、真善美体系に呪縛されてアホになれない。 (略) ブルースは民族音楽である。ジャズは都会音楽だ。ブルースは合衆国南部奴隷地帯のあちこちで同時多発的に生まれた人種音楽であってどこで生まれたと特定できないがジャズはニューオルリンズで生まれた。フランスの制度と習慣の遺産たるクリオールがいたからであり、公娼街のストーリーヴィルがあったからだ。ブルースは歌であるジャズは器楽である。南北戦争後の南軍軍楽隊の放出楽器があったからだが軍放出楽器はニューオルリンズに限らないのに、この港町でジャズが生まれたというのは楽器を買う金がクリオールにあったからだ。 1.1900年、三遊亭円朝が死に、サッチモが生まれた。したがってジャズは落語の生まれかわりである。 括弧内は筆者による 黒人大統領誕生をサッチモで祝福する平岡正明 愛育社 2008年11月5日 かずかずの うそうそしい言葉より この歌を 八田淳からもらったのは、ちょうどおととしの秋であった。彼の体躯に似つかわしくない弱々しくも傲慢な感じがして正に彼の素性をあらわしている様で図らずも頬がゆるんだのだがこれをまでもウソとしてしまう彼にはテレ以前のまことしやかなSENSIBILITYを覚え ‘‘弱き故の表現’’がかろうじて彼を成り立たせている(?)のではあるまいかと思う。70年 京都近代美術館の現代美術の動向に出品した徐々に消えゆくプロセスを示したものや 又、72年京都ビエンナーレの壁から床に向かって奇妙な斜角をもって張られた一本のロープや、73年京都アンデパンダン展の斜めに置かれた赤い二枚の板 同じく73年京都ビエンナーレでのロープを内蔵した石膏の棒などこれらの作品において、彼の視点が根ざしているのは‘‘隠微’’という彼特有のロマンであろうことは、それまでの作品につけられた CUTというタイトルを見ても察することが出来るのだが、あからさまな積極性 乃至 消極性を欠くロマンチストに、今尚少なからぬ疑問が残るのは私だけではないであろう。 シリアスごっこを忌み嫌う彼にとって今回の個展が果たして彼の隠微!な二面性を示すか? それとも華麗!な二面性を示すか?非常に興味あるところであるが、少なくとも八田淳 個人にとってある種のエポックを感じずにはおれない。 返歌 1973年11月 京都にて 困難なのは物事をつくることではなく、物事をつくるための状況に身を置くことである。 ブランクーシ/ルーマニアの彫刻家 後ろ盾なく無鉄砲 矢面に立つ 身ひとつ 2009年3月 八田 淳 ①/②以外の引用 スピーチに---文章に---世界の名句引用辞典 監修 扇谷正造・山本健吉・本多顕彰・宮 柊二 自由国民社刊 練馬区立 貫井図書館より借用 |