2022年10月6日(木)-11月12日(土)渡辺兼人写真展『鮠の傷』
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作家略歴 |
1947 | 東京に生まれる | |
1969 | 東京綜合写真専門学校卒業 | ||
1982 | 第7回木村伊兵衛賞受賞 |
個 展 |
1973 | 『暗黒の夢想』ニコン・サロン(東京) | |
1974 | 『神秘の家、あるいはエルベノンの狂気』シミズ画廊(東京) | ||
1981 | 『既視の街』ニコン・サロン(東京) | ||
1982 | 『逆倒都市』ツアイト・フォト・サロン(東京) | ||
1983 | 『逆倒都市Ⅱ』ツアイト・フォト・サロン(東京) | ||
『類と類型』オリンパス・ギャラリー(東京) | |||
1984 | 『逆倒都市Ⅲ』ツアイト・フォト・サロン(東京) | ||
1985 | 『人形1973-1983(制作 四谷シモン)』 | ||
『ジャック・ザ・リパーに関する断片的資料1973』つくば写真美術館'85(つくば市) | |||
1987 | 『YAMATO-TOKYO』Gスペース(東京) | ||
1988 | 『YAMATO-大和』ツアイト・フォト・サロン(東京) | ||
1990 | 『YAMATO-F』朝日ギャラリー(東京) | ||
『彷徨・写真・城市』パストレイズ・フォト・ギャラリー(横浜) | |||
1992 | 『L'ATALANTE』平永町橋ギャラリー(東京) | ||
『昭和六十六年 葉月』ツアイト・フォト・サロン(東京) | |||
1993 | 『YAMATO1987-1990』ピクチャー・フォト・スペース(大阪) | ||
1994 | 『神無月迄』ツアイト・フォト・サロン(東京) | ||
1996 | 『水無月の雫(参)』ツアイト・フォト・サロン(東京) | ||
1997 | 『水無月の雫』江寿画廊(京都) | ||
1998 | 『半島』エッグ・ギャラリー(東京) | ||
1999 | 『半島』江寿画廊(京都) | ||
2000 | 『孤島』銀座九美洞ギャラリー(東京) | ||
『(島) 光の暴力』エッグ・ギャラリー(東京) | |||
2002 | 『水無月の雫(弐)』銀座九美洞ギャラリー(東京) | ||
2003 | 『渡辺兼人 写真展』何必館・京都現代美術館(京都) | ||
2004 | 『陰は溶解する蜜鑞の』ツアイト・フォト・サロン(東京) | ||
2005 | 『孤島』アートプランニングルーム青山(東京) | ||
2006 | 『雨』ギャラリー山口(東京) | ||
2007 | 『摂津國 月の船』ギャラリー メスタージャ(東京) | ||
2008 | 『雨の営み』巷房(東京) | ||
2010 | 『忍冬・帰還』何必館・京都現代美術館(京都) | ||
『忍冬・帰還』ギャラリー メスタージャ(東京) | |||
2011 | 『忍冬・帰還』Beansseoul GALLERY(韓国・ソウル) | ||
2012 | 『水脈の貌』ギャラリー メスタージャ(東京) | ||
『水脈の貌』Beansseoul GALLERY(韓国・ソウル) | |||
2013 | 『真菰は』ギャラリー メスタージャ(東京) | ||
2014 | 『野老』ギャラリー メスタージャ(東京) | ||
『真菰は/野老』Beansseoul GALLERY(韓国・ソウル) | |||
2015 | 『半島/孤島/水無月の雫』ツアイト・フォト・サロン(東京) | ||
『泡沫の声』ギャラリー メスタージャ(東京) | |||
『泡沫の声/半島』Beansseoul GALLERY(韓国・ソウル) | |||
『雨はどのように降るのか』ギャラリー メスタージャ(東京) | |||
2016 | 『PARERGON(パレルゴン)』ギャラリー メスタージャ(東京) | ||
2018 | 『雨の雨域』Gallery KOBO(東京) | ||
2017 | |
『断片的資料・渡辺兼人の世界 1973?2018』 全7回 AG+ Gallery (横浜) | ||
2019 | 第1回 2017.9.14 - 9.30 スナップ - 『声』 | ||
第2回 2017.11.9 - 11.25 都市 ①- 『既視の街』 | |||
第3回 2018.2.1 - 2.17 都市 ②- 『逆倒都市Ⅰ・Ⅲ・Ⅳ』 | |||
第4回 2018.4.12 - 4.28 都市 ③ -『YAMATO - TOKYO・大和・F』 | |||
第5回 2018.6.7 - 6.23 旅 - 『彷徨・写真・城市』、『L'ATALANTE』、『摂津國 月の船』 | |||
第6回 2018.11.1-11.17 島 - 『半島』、『 (島)光の暴力』、『 孤島』 | |||
第7回 2019.5.16 - 6.1 草・水 - 『水無月の雫』、『雨』、『忍冬』 | |||
2019 | 『摂津國 月の船』渡辺兼人写真展 Beansseoul GALLERY(韓国・ソウル) | ||
2020 | 『声』IG Photo Gallery(東京) | ||
2021 | 笠間悠貴企画展 “風景の再来” 『6×9の春』Photographers’ gallery(東京) | ||
『墨は色』Gallery KOBO(東京) | |||
2022 | 『Material』ツアイト・フォト・サロン国立(東京) | ||
2017年9月から渡辺兼人ワークショップを開催中(k.watanabe.workshop@gmail.com) |
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グループ展 |
1985 | 『パリ・ニューヨーク・東京』つくば写真美術館'85(つくば市) | |
1986 | 『日本現代写真展』(バルセロナ、マドリッド、ビルバオ、バレンシア巡回) | ||
2008 | 『シネフィルと写真』ギャラリー メスタージャ(東京) | ||
出 版 |
1980 | 『既視の街』(新潮社) | |
2003 | 『渡辺兼人 写真集』(何必館・京都現代美術館) | ||
2015 | 写真集『既視の街』東京綜合写真専門学校出版局 | ||
コレクション |
東京都写真美術館(東京) | ||
A.O.I. ギャラリー(U.S.A.) | |||
ツアイト・フォト・サロン(東京) | |||
何必館・京都現代美術館(京都) | |||
川崎市民ミュージアム(神奈川) | |||
エッグ・ギャラリー(東京) | |||
江寿画廊(京都) | |||
ギャラリー メスタージャ(東京) |
金沢のポロロッカ笠間悠貴
「鮠の傷」(はやのきず)は川の写真である。とはいえ、この連作に、川が直接写り込む写真は多くない。それよりも、雑草の生い茂る空き地や、未舗装の生活路地、古びた住居の軒先など、名もない場所へとレンズが向けられている。
本作は、渡辺兼人が常にフィールドとしている東京ではなく、金沢で撮られた。金沢に流れる犀川と浅野川の周辺においてである。たとえ川が写り込んでいない写真であっても、画面をよく見渡せば、遠景に橋や堤防が覗いている。事実、これらのほとんどは、金沢の両河川から100メートルも離れていない地域でだけ撮影が行われた。この作品が川に貫徹している理由は、二つ挙げられる。一つは、室生犀星の幼少期に過ごした寺院である雨宝院から出発して、その周辺を撮ることにあった。生後間もなく両親の元を離れた犀星は、自分と血の繋がらない寺の住職に育てられた。犀星の書いた小説『鮠の子』(はやのこ)は、犀川を泳ぐ魚のハヤを擬人化し、乱暴なオスに望まず身ごもらされたメスのハヤが、それでも卵を産むために命を削って上流へと登る物語である。産卵後に死ぬ運命にある魚の死出の旅の物語を通じて、血縁を理由にするにはあまりにも不条理な母による子への愛情として、命を継承する自然の強さを描いている。
もう一つは、川そのものへの関心である。川を不可逆な時間を想起するものとして象徴することがあるが、渡辺の関心はむしろその反対だろう。川を民俗学的に考察した北見俊夫の『川の文化』によれば、川は一方的に高いところから低いところへと流れるだけではないという。実際川には、目にすることのできる表流水の他に、地中を流れる伏流水がある。砂礫の多い扇状地では、表流水の一部や雨の水が地下にしみこみ、そこで伏流水になる。その伏流水は、泉となって再び地上に湧き上がり、あるときは別の流れを作り出し、またあるときは元の川に合流などする。さらに下流に近い汽水域では、表流水もまた、潮の干満に応じて上流へと逆流することもある。川はその総体として、複雑な運動を伴う水脈なのである。
だからといって渡辺は、「鮠の傷」において両河川を、犀星の小説を追憶するように、もしくは河川の構造を解説するように、分かりやすく再現しはしない。また、そのフレーミングの仕方も、対象の全体を正面から写すことはほとんどなく、途中で寸断している。写真家が岸辺を歩行する中で出会った断片を、断片のままに提示する。作品に一つのまとまった意味を与えることはない。その理由は、出来事にはあらかじめ結論が与えられているわけではなく、偶然の連なりによって生起するものであるという考えこそが、川についてこの作品が貫くモティーフだからである。
確かにあった現実の手触りを、写真もまた取り逃す。事物の表面だけが写真に残る。渡辺は、そのことを驚くほど純粋に遂行し、歴史や記憶のメカニズムから捨象されゆくものばかりを写真に集め、直線かつ均一な時間と空間に切れ目を入れようとするのである。
(かさまゆうき/写真家)
開催のご挨拶
2022年6月、渡辺は金沢の犀川、浅野川周辺を撮影しました。犀川は、作家室生犀星が幼少のころに家庭の事情により預けられた雨宝院の傍らを流れています。
「鮠は、犀川を遡上するとき、体を岩にあちこちぶつけてたくさんの傷をつける」
作家の幼少の頃の悲しみと、晩年病に倒れ自宅で最後に鮠を食する際のその傷の逸話が、渡辺を撮影へと突き動かしたことは否定できないでしょう。ただそれはあくまでもカメラを持って歩き始めることの端緒であり、写真がその情念へと収斂されていくということではありません。カメラを持って街を彷徨い、撮影するという無責任な身体行為は、紙に再現して展示をするという抑制行為によって、当初の思惑とはまったく別の地点に着地していくかのように見えます。その行き違いを引き受けることで生じるぱっくりと割れた乳剤上の無数の傷を、あえて癒すことなく次の傷の増殖へと加担させていく。それが渡辺の写真のありかたと言えるかもしれません。
カラー作品、18点の展示です。是非ご高覧ください。
ギャラリーメスタージャ 外久保恵子